社会学において「知識」は, 人びとに特有のリアリティを与える社会的フレームを意味し, 宗教はその1つとして考えられている. 従来, 社会の中心的な「知識」は, 宗教的/政治的エリートにより生産され, 人びとの認識や社会関係に大きな影響を与えてきた. だが, 「情報化」のもと, 宗教的知識をめぐる環境は大きな変化の中にある. 情報化の進展は, 人びとが既存の権威から自由に宗教的知識を獲得し, また解釈することを可能にしている. 本稿の目的は, こうした環境変化の中で, 現代イギリスの若者ムスリムがどのようにイスラームの‹知識›と関わり, 社会への統合を果たしているのかを描くことにある. データは, コベントリー市における若者ムスリムへのインタビューを通じて収集され, 主題分析により検討された. 調査の中で, イスラームの‹知識›の探求を促す(親の世代と異なる)3つの環境が指摘された. 第1に, イスラームの‹知識›をめぐるインフラの充実, 第2に, 非イスラーム社会においてムスリムとして生活すること, 第3に, ムスリムをとりまく社会的プレッシャーである. このような環境の中で若者ムスリムは, より広い社会への参加のために, ‹知識›との積極的な関わりを通じて, イスラームの再解釈/再呈示をおこなっている. このことは, 若者が自身の生きる社会的文脈への適応を容易にするために, 宗教的インフラや情報のさらなる充実が求められていることを示している.
本稿は, アンソニー・ギデンズの社会理論における行為の再帰的モニタリングを, 認知と文化の共進化理論ならびに最近の神経科学の成果を導入することで, 理論的に再構成することを企図している. はじめに, 現生人類以前からつづく認知と文化の歴史を, 遺伝子-文化共進化理論の学説とともに概観する. つぎに, 再帰性と社会類型の議論を確認する. 認知と文化の歴史で重視される要素は, 模倣・口承・識字である. ギデンズ社会理論では, 文字の出現前後で再帰性の類型を区別する. しかし, その移行期になにがおきたのかは十分に説明されていない. そこで文字が出現する前後の類型を, いわゆる大分水嶺理論を援用し整理したうえで, 双方に神経科学的な基礎づけをおこなった. 結果, 模倣と口承という原初的な再帰性の神経科学的メカニズムの1つとして, ミラーニューロンが浮上した. 他方, 文字の出現以降は, ニューロンのリサイクリングとよばれる識字による脳神経の再編成が, 再帰性の作動変更の神経科学的な根拠となることがわかった. 以上をギデンズ社会理論に導入した結果, 識字以後の類型である伝統的文化とモダニティの非連続性は相対化された. さいごに, 識字化の帰結について論点を確認した. 現在われわれは, 識字による脳神経の再編成と再帰性の進化がはじめて人類社会を覆いつくし, さらには選択圧をみずから再帰的に変更可能とする歴史段階を経験している.
近代君主制国家の人びとは, 産業資本制と結びつきスペクタクル化した君主の祝祭をどのように眺め欲望していたか. またその視的経験は, かれらのナショナル・アイデンティティ形成とどのようにかかわりあっていたか. 本稿では, 20世紀初期の日本社会を事例にしつつ, この問いについて社会学的に応答することが目指される. つまり君主の祝祭のスペクタクル化という史的事態がネイション編成とどう関連しあっていたのかが, 同時代人たちの視覚経験から再考される.
あきらかにされるのは次の2点である. 第1に, 君主のスペクタクルの見物者たちを特徴づけたのは, 祝祭の景観を刹那的かつ量的に眺め欲望する知覚様式であったこと. 第2に, 資本制に照応したこの知覚様式の拡がりから, 君主のスペクタクルを構成する表象群の ‹国民的› な意味作用が失効する事態が生成されていたことである. 本稿では, この2点をつまびらかにすることで, 君主の祝祭をスペクタクル化する経済主体の運動が君主制ナショナリズム編成に対して含んだ反作用的な契機と機制が呈示される.
農村アクセス問題とは, レクリエーション活動のため農村地域の土地を利用する人々と, その土地の法的所有者 (おもに農民) の間の対立である. この問題をめぐって生じる, アクセスの地点ごとに対話やシステムが成立したりしなかったりする一方, 問題における不正義を明白に指摘することも難しいという事態は, 複数の主体による自然資源管理をめぐる先行研究の枠内には必ずしも収まりきらない. 本稿は, 農村アクセス問題の深刻化したアイルランドにおける山歩きを事例として, そのような状況下でのレクリエーション利用者の対処のありようを, その活動の多地点性を踏まえたかたちで分析する.
現在アイルランドの2つのウォーカーの全国団体は, それぞれ正義と対話の観点から農村アクセス問題を捉え, 互いに対立している. 他方で, 実際にアクセスに問題を抱えた現場で活動する登山クラブへの調査からは, 彼らが「農民との良好な関係」という論理を用いつつ, あるべき姿の山歩きという理想を重視する観点からアクセスに対処していることが判明した. そのような実践は, 農民とできるだけ共存しつつこれまでどおりのレクリエーションをおこなっていくための作法として現場で機能しており, レクリエーションの論理それ自体に他者との共存を可能にするような志向性が内在していることを示している. また, この結論は人々の日常的実践がもつ深みに注視することの重要性を我々に教えている.
今日, 環境問題の政策決定において不確実性に言及することは不可避になっている. 福島第一原子力発電所事故後の放射線被曝問題においても, 政府批判をする側だけでなく政府側に立つ論者も, 科学研究に不確実性があることは認めている. しかし, 彼らの論じ方は「一般論」的であり, 個別・具体的な不確実性に向き合っておらず, そのことが異なる立場間の意味のある議論を阻んでいるのではないか. こうした問題関心から出発して, 政府が設置した2つのワーキンググループ (WG) の議事録を分析した. その結果, 不確実性の論じ方に量・質の両面で大きな違いが見られた. 放射線・原子力の専門家からなる低線量被ばくWGでは, 原子放射線の影響に関する国連科学委員会 (UNSCEAR) や国際放射線防護委員会 (ICRP) といった「国際的合意」の解釈が多くを占め, その限界に対する批判的吟味を欠いていた. それに対して, 放射線以外のリスク研究者が加わった食品安全委員会WGは, 個別の論文やその不確実性へと自覚的に立ち入った議論をしていた. 自らが依拠する研究成果も含めて, 不確実性について系統的に検討する「負の自己言及」は, 政策決定に至るプロセスを外部に開いてみせるとともに, 各メンバーの立場・価値観の違いを可視化することにもつながっていた. また, 負の自己言及を伴う議論は, 非専門家が参加した場では成立しにくい可能性があることが示唆された.