社会学評論
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60 巻, 1 号
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特集・「見る」ことと「聞く」ことと「調べる」こと
  • 後藤 範章, 好井 裕明
    2009 年 60 巻 1 号 p. 2-6
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
  • 映像社会学の新たな研究課題をめぐって
    石田 佐恵子
    2009 年 60 巻 1 号 p. 7-24
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    今日の人びとの暮らしは,圧倒的なビジュアル文化に埋め尽くされている.ムービング・イメージ,すなわち「移動する〈仮想〉の視線」を扱う社会学を,ここでは「映像社会学」と位置づける.映像社会学とは,方法・対象・実践としての映像を総合的に考える領域と定義される.映像社会学への関心は1980年代から次第に高まってきたが,より注目されるようになったのは,文化論的転回以降の知的潮流と,デジタル化時代の新しい研究ツールとが合流する90年代後半のことである.この転回を受けて,映像や図像の意味は本質化を疑われ,徹底的に文化的な構築物として捉え直されることになった.
    本論では,文化論的転回以降の映像社会学の研究課題が示される.すなわち,映像制作と映像解読の双方の実践の場に研究する主体を置き,両者を連続的なものとして捉え直す,という課題である.こうした課題に近づくために,まず,社会学的な映像制作における諸条件が考察される.そこでは,撮影する主体と映像の移動性・流動性が強調される.さらに,社会学的な映像解読の手法について検討する.あわせて,グローバル時代の映像流通と受容とが議論される.
    これらの作業を通じて,視覚性の優位に特化した社会学的人間観を修正し,多様なオーディエンス,ジェンダー化された身体や規格化されない身体にとっての「見ること+聞くこと」の経験を,より広い身体の領域へと拓いていくことが,本論の目標点である.
  • フィールドワークにおける映像データの取り扱いをめぐって
    山中 速人
    2009 年 60 巻 1 号 p. 25-39
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    本論では,フィールドワーク(FW)における映像メディア利用の形態が整理され,筆者が実施したFWにおける映像メディアとデジタル映像データを活用した調査事例が紹介・評価され,最後に映像FWの今後の展望と課題が提示されている.
    FWにおける映像メディアの利用形態には,(1)対象者自身によって記録された映像メディアの利用,(2)調査記録としての利用,(3)調査手段としての利用,(4)調査報告としての利用,の4つがある.(3)についてさらに分類し,(a)映像撮影によるラポール形成,(b)映像によるメモ,スケッチ,フィールドノーツ,(c)映像による対象者へのフィードバックと参加の3形態があると指摘される.
    つぎに,調査事例については,(1)ライフスタイル調査への応用としてタイにおける8ミリビデオを使った生活財調査,(2)防振ステディカムを使った大阪生野コリアタウンの映像記録事例,(3)デジタル映像とハイパーテキストによるライフストーリーの記録CD-ROMの制作事例,の3つが紹介され,方法の概説と評価が行われている.
    最後に,映像FWの展望と課題について,(1)映像メディアを社会学研究に活用する際のマルチメディア技術の有効性が指摘され,さらに,(2)社会学研究の過程で作成された映像コンテンツに対して,研究者と対象者の非対称性を克服するため,開かれた「読み」への参加の重要性が指摘されている.
  • 「見る」ことと「調べる」ことと「物語る」こと
    後藤 範章
    2009 年 60 巻 1 号 p. 40-56
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    本稿は,C. Knowlesらが提示した(Knowles and Sweetman eds. 2004)「ビジュアル・メソッドは社会学的想像力を活性化させる」との命題の妥当性を,筆者が16年前からゼミの学生と協働して取り組んでいる“写真で語る:「東京」の社会学”と題する研究プロジェクトと,その中から編み出された“集合的写真観察法”を通して検証するとともに,ビジュアル・メソッドのもつ豊かな可能性を描き出し,もって調査方法の視覚的再編成を促すことを目的とする.
    “集合的写真観察法”は,学生たちが撮影した「東京」や「東京人」に関する写真を素材として,次のように継起的に進行する3局面からなる.(1)写真“を”見ることによって感応力(センス・オブ・ワンダー)が高められ,「小さな物語素」が引き出される.(2)写真“で”見ることによって社会学的想像力が働き,「写真の背後に隠れているより大きな社会的世界」が想像イメージされ読み込まれる.(3)写真“で”語る(フィールドワークに裏打ちされたテクストを写真に寄生させる)ことによって意味が投錨され,それまで見えていなかった「社会のプロセスや構造」が視覚化(可視化)され知覚化(可知化)される.
    写真(画像イメージ)は,社会学の営みと人々の日常生活とを相互につなぎ合わせる「中継点アクセス・ポイント」であり,調査方法に加え教育や研究のあり方をも変革するポテンシャルを秘めている.
  • 安川 一
    2009 年 60 巻 1 号 p. 57-72
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    これは,視的経験を社会学するための視座設計の試作品である.わたしたちの見る営みは互いにどう違うのだろう.現代社会・文化の様々な領域で視覚の優位が言われてきた.社会学的思考も,見ることはすなわち行為であり制度である,そう述べてきた.けれども,具体的な視的経験の豊かなありかたが直視されることはあまりなかった.視的経験の実際を探ろうと思う.つまり,生理的機能としての視覚でも社会・文化・歴史的抽象としての視覚性でもない,雑多に繰り返される日々の諸経験の視覚的位相の探求である.この観点から私は,社会心理学的自己概念研究法である自叙的写真法に準じて自叙的イメージ研究を試みた.被験者に「わたしが見るわたし」をテーマにした写真撮影を求め,撮影行為と自叙的イメージとで視的経験を自己言及的に活性化して,その様子を観察しようというフィールド実験である.総じて,生成された自叙的イメージの多くは生活世界の“モノ語り”像(=モノによる自己表象)だった.ただし,イメージの自叙性のいかんは主題ではない.イメージ自体の分析が視的経験の解析に至るとも思えない.課題は分析よりむしろ,イメージ群をもって視的経験をいかに構成してみせるかにあると思う.私は,イメージ群の配列-再配列を繰り返しながら,イメージ陳列の仕方自体を視的経験の相同/相違の表象として試みつつ,この作業を通じて考察に筋道をつけていきたい,そう考えている.
  • 小林 多寿子
    2009 年 60 巻 1 号 p. 73-89
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    本稿は「聴覚社会学」というテーマのもとで,個人的経験をオーラルに表現する声とその声を聴く行為を再考する.声の録音- 再生機能というテクノロジーの発達がインタビュー調査になにをもたらしたかをふまえつつ,約20年前におこなった1人の日系カナダ人一世のライフストーリー・インタビューを再生して声を聴き直すことを実践し,聞き手としての関係形成的な聴き方を確認する一方で,再生された声の現前性から,声のなかの他者の声を聴きわけ,間接話法で表現される他者の声を具体的にとりあげる.そして声の「領有」のありようのなかに自己と他者の関係性をみいだし,オーラルな語りの多声的な特徴の意味を検討している.さらに語り手が病のために声を失うという事態に遭遇して,声が伝達的コミュニケーションだけでなく,声の共同性や「自己- 触発」,声の自己回帰的特質をもつことをあきらかにしている.インタビューを声として再聴し,聴く行為を実践することによって聴覚と視覚の特徴をあわせもつ「声のエクリチュール」を論じていることを再認している.結局,オーラリティにもとづく研究とは,統合的で調和的,累積的な聴覚の志向をふまえて声のなかにあらわれる個人の歴史性や自己再帰性を汲みあげながら,パロールとエクリチュールの相互性のなかで人間の「ライフ」の理解をめざす社会学的研究として展開可能性があることを論じている.
  • インタビューのエスノグラフィーを実践する
    古賀 正義
    2009 年 60 巻 1 号 p. 90-108
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    従来インタビュー調査は,構造化された質問によって「本音」を引き出す作業と理解されやすかった.しかし,近年の構築主義的調査観では,インタビューは聞き手と語り手の共同行為であり,「語りうるもの」をめぐるネゴシエーションの政治力学的な産物であるとされる.
    ICレコーダーなどの利用による音声データの再現可能性の向上は,「出来事」としてのインタビュー実践をきめ細やかに理解することを可能にしている.これに伴って,筋書きを用意した物語型の聞取りから,「声」と「音」(ここでは,互いの発話行為と収集される状況内の音声要素)を,インタビュー状況に沿って収集するデータベース型の分析が必要とされる.「インタビューのエスノグラフィー」が求められるのは,そのためである.
    データの内在的分析は,「ストーリー」が制作される聞き手と語り手の多元的な関係性に注目させ,他方,1つの立場から回答者の「声」を読み込む問題性を指摘する.調査者に解釈される「物語世界」を重層的に構築するには,インタビューにおける「声」の濃密さと「音」の収集との相互連関を理解し,回答者の多声性を読み解くスパイラルな実践を試みる必要がある.
    進路多様校卒業生の聞取り調査から,「声」と「音」を丁寧に読み込むことで,ステレオタイプな卒業生イメージが溶解し彼らの生活世界と接合していく局面を提示して,インタビューデータの飽和的で重層的な理解の必要性を強調する.
  • 「日常の政治」のエスノグラフィーへ
    好井 裕明
    2009 年 60 巻 1 号 p. 109-123
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    映画やドキュメンタリーを読み解く社会学は可能だろうか.たとえば長谷正人は私的宇宙に内閉しがちな巷ちまたの映画評論ではなく,映画が時代との関連性や様々な歴史的制約のもとで製作されるという事実から時代や歴史との繁がりで「映画の政治」を批判的に解読する社会学を構想し例証する(長谷・中村編2003).私はそうした主張に同意しながら,別様の可能性を本稿では示したい.それは「日常の政治」を読み解く映画社会学という可能性である.「日常の政治」は,私たちが普段実践している「人々の社会学(folk sociology)」の中に息づいている.そうした「政治」を映画やドキュメンタリーから読み解く手がかりは何だろうか.それは「カテゴリー化」という実践である.本稿では,3つの映画やドキュメンタリーを取り上げ障害者をめぐるカテゴリー化という実践の変容を例証する.現在,ライフストーリー研究など質的な社会学研究が盛んに行われているが,そうした研究においても「カテゴリー化」の解読は重要な作業である.同様に,映画やドキュメンタリーという素材は,たとえばそこに提示されている多様な映像を「カテゴリー化」という視座から批判的に読み解くことで,私たちが「日常の政治」を反省し得る社会学を創造する可能性を秘めているのである.
投稿論文
  • 非正規滞在移住労働者支援労働組合の試みから
    高谷 幸
    2009 年 60 巻 1 号 p. 124-140
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    1990 年代頃から議論されるようになった「公共圏」論は,同一性を基盤としない政治空間の可能性を模索してきた.この中で,マイノリティによる支配的な社会構造への対抗を強調する対抗的公共圏や同一性を基盤としない共同性である創発的連帯のあり方が議論されてきた.しかしこのような創発的連帯が,あるカテゴリーにもとづく対抗的公共圏として現象することは,いかに可能だろうか.
    本稿で検討した,非正規滞在移住労働者を組織化してきた全統一では,創発的連帯と脱国民化された公共圏は,一方で移住労働者の生活にかんする要求を充たす社会圏と,移住労働者に「労働者」としての規範を内面化させる親密圏を基盤にすることで成立していた.つまり社会圏に集まる数多くの移住労働者は,規範の共有にかかわらず公共圏に「動員」される.同時に,親密圏の位相で「労働者」の規範を内面化した少数の移住労働者は公共圏に現れ,脱国民化された「労働者」という対抗性を表現していた.こうして全統一では,同一性を基礎としない創発的連帯が公共圏内部で生み出されながらも,外部から見れば「労働者」の脱国民化された対抗的公共圏が現象していた.つまりアイデンティティ・ポリティクスに陥らないかたちでの対抗的公共圏は,複数性と対抗性が公共圏の内部と外部で区分されることで可能になっている.
  • 言説領域のオートポイエーシスをめぐって
    橋本 摂子
    2009 年 60 巻 1 号 p. 141-157
    発行日: 2009/06/30
    公開日: 2010/08/01
    ジャーナル フリー
    ハンナ・アーレントの政治論をめぐっては,しばしば,その公/私‐境界の硬直した二分法が指摘される.公的空間からあまりに厳格に自然必然性を抜き去ることによって,社会問題への適用可能性を狭め,政治理論としての価値を損なっているのではないか.本稿はこうしたアーレント解釈に抗し,彼女のおこなった公/私の境界区分を,テクストに沿って精確に描き直す.社会学の文脈にアーレント政治論を配置し,新たな可能性をひらく試みである.
    アーレントにおける公/私‐境界の区分は言語/非言語‐境界に対応する.彼女は公的領域から言語外在的要素を排除したが,単に2つの領域を分断したのではなく,「事実」という独自の視点から言語/非言語-領域を分離・接合(articulate)させた.そのような公/私-区分は法執行カテゴリーよりも,むしろ理論社会学におけるシステム/環境‐区分に等しい.このことから,アーレントの政治思想は,近年の社会システム理論と強い親近性をもつことが示される.超越的根拠を排した〈政治〉=言論の自己準拠的再生産を通じて創設・保持される「公的空間」は,システム/環境‐差異にもとづくオートポイエーシスとして読み解くことができる.それによって,「複数性」という術語が,生命や真理などの伝統的な政治理念のかわりに立てられた,世界の実在性(reality)に立脚するアーレント〈政治〉の存立根拠であることを明らかにする.
第7回日本社会学会奨励賞【著書の部】受賞者「自著を語る」
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