本稿では明治大正期における日本の地理学のおかれた地位と環境を概観しようとする.
1. 江戸時代までの地理思想のほとんどは,明治以後に継承されなかったが,中国伝統の方志編纂の方式をもって,地誌あるいは地理とする考だけは長く残っている.
2. 明治初期は西欧の産業技術の導入を旨としたから,鉱山開発のための地質学の発達に伴い,自然地理学への関心も拓けた.しかし人文地理研究はずっとおくれた.
3. 学校教育では地理の知識は必要と認められたが,もっぱら方志(地誌)的知識と地球に関する一般教育が上級学校でなされた.しかしそれに対する師範教育の組織は旧態依然たるものであった1異色の地理書もなくはなかったが,情勢をかえるには程遠かった.
4. 研究としての地理学は長く発達しなかった.大学程度の地理学は明治20年ごろより理科大学(小藤文次郎),文科大学 (Riess, 坪井九馬三)ではじまり, 30年代に山崎直方(理科大学), 40年代に法科大学(山崎)で行われたが,専門課程としての地理学講座は明40, 京大文科大学(史学科,小川琢治・石橋五郎), 44年,東大理科大学(地質学科,山崎一大8に地理学科に独立)にできた.
5. この大学における専門講座・学科の独立のおくれは,そのまま科学としての地位を示しており,国際会議への参加の遅延にもみることができる.
6. その理由としてあげられるのは,専門的学修者の少ないことと,専門的刊行誌の存しなかったためである.地球(大13)・地理学評論(大14) の発刊とその母体の学会の創立は,明治以来,半世紀にして地理学がはじめて,学問の出発点に立ったことである.私見をもってすれば,山崎・小川両先生の最大の功績はこれである.この地質学者によって創始された二つの学会が,その後「学界」を形成するに役立ったかどうかは,次の課題として論ずべきである.
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