地理学評論
Online ISSN : 2185-1719
Print ISSN : 0016-7444
ISSN-L : 0016-7444
41 巻, 10 号
選択された号の論文の6件中1~6を表示しています
  • 中田 高
    1968 年 41 巻 10 号 p. 601-614
    発行日: 1968/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    南西諸島最北部に位置する種子島には,北端部と中新統の広く分布する南東部を除いて,北半部では隆起波蝕台起源と考えられる丘陵状の小起伏面下に周縁的に,南半部では台地状をなして海岸段丘が発達する.島は北西-南東方向に雁行配列する4本の断層によって5地塊に区分され,段丘の発達の程度(段数,高度,幅)は各地塊によって差が大きいが,段丘面はほとんどすべて外海の波蝕作用により形成されたものである.段丘面の高度,連続性,面上の火山灰の分布状態から,8段の海岸段丘の発達が認められ,各段丘の旧汀線高度は第1段丘 (120m~180m), 第2段丘 (120m~170m), 第3段丘 (80~210m), 第4段丘 (25m~130m), 第5段丘 (50m~90m), 第6段丘 (25m~75m), 第7段丘 (20m~30m), 第8段丘 (5m~8m) である.第3段丘は北半部では東西両岸に周縁的な発達をみせるが,南半部では最高位の段丘として台地状を呈し,野間台地,坂井台地では北に傾斜する傾動地塊の背面として分布する.第4段丘は本島で最も普遍的に発達する段丘で,段丘面の保存,連続性がよく,段丘堆積層中に温暖な海域を示す有孔虫,サンゴ破片が発見された.第6段丘は主として西岸に発達する連続性の良い段丘で,南部での発達がよく,本島の属島,馬毛島にも広く分布する.第8段丘の発達は良くないが馬毛島の西岸では本段丘上に隆起サンゴ礁がみとめられる.このような事実から,第4段丘は最終間氷期の,第8段丘は沖積世初期の高温高海面によって形成されたものと思われる.各段丘の旧汀線高度から島の南西部屋久津付近を隆起の軸とする撓曲運動が認められ,高位の段丘ほど変位量が大きい.断層活動は主として第3段丘形成後,第4段丘形成前に行なわれたが,最北部の花里崎-田ノ脇断層の活動は第4段丘形成後も続いた.第3段丘,第4段丘および第6段丘の隆起旧汀線高度の間には,それぞれ,正の相関関係がみとめられ,その間にT3=1.5T4+2, T41.4T6+30, T3=2.5T6+30の関係がある.第4段丘の旧汀線高度から推定される地殻変動のようすは本島の中新統の走向,傾斜の方向,量によく一致し,一般に西岸が東岸より隆起傾向が大きいが,最北部の地塊では中新統段丘面からみて東岸が隆起する傾向が認められ,断層の蝶番的活動を示している.このように,一時的な断層活動も認められるが,中新世以降,同じ傾向の地殻運動が長期にわたり働いたと考えられる地域では,前述の関係式の係数は段丘形成後経過した時間の相対関係を示し,この関係式から段丘形成期を推定出来る可能性がある.段丘面上の火山灰はトカラ火山起源のものと考えられるが,第4段丘上および第3段丘上の1部に特異な分布を示す黄白色パミスは北方から供給されたpumice flowの周縁堆積物と考えられる.火山灰の分布状態の差は第3段丘と第4段丘の間,第4段丘と第5段丘の間,第7段丘と第8段丘の間に認められ段丘面の分類,対比に利用出来た.
  • 新井 正
    1968 年 41 巻 10 号 p. 615-622
    発行日: 1968/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    冬季の日本海側各地の河川流量は,太平洋側各地の河川流量よりもはるかに多い.この傾向は月平均流量にも,月最低流量においても指摘される. 1月・2月の月最低流量をとりあげると,河川への水の供給は雪面における融雪によるものでないことが熱収支計算などから知られる.それ故,この水量が地中からの熱による融雪によるものとすると,大体において一致する傾向を得る.この水量は1月・2月においては全流出の50~70%を占め,冬季の流出の重要な部分となっている.
  • 斎藤 功
    1968 年 41 巻 10 号 p. 623-640
    発行日: 1968/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    群馬県東南部で,酪農地域の発展過程を牛乳産業を構成する搾乳業者,酪農家,乳業会社の歴史的関連から考察した結果,酪農地域は牛乳産業の分化にともない6期の発展過程を示した.
    搾乳業者は,幾多の変化をしつつも,戦前まで当地域の牛乳産業をリードしてきたが,第IV期における地元乳業会社の成立と戦時統制,続く第V期の外来中小乳業会社,第VI期の大手乳業資本の進出のなかで,地域社会と結びついた学校牛乳業者と牛乳販売地盤を生かしつつ大手乳業会社の牛乳販売店へと転化した.
    明治30年代に乳牛飼養を開始した農家は,大正末期に搾乳産業組合を設立し,牛乳の処理・販売に着手したが,多くは失敗した.戦時統制により集乳圏が明治のSpot, 大正のlocalからRegionalとなるなかで,戦後の広範は酪農の普及が準備された.
    昭和31年,集約酪農地域の指定以降,東京集乳圏の拡大にともなう大手乳業資本の進出のなかで多頭育酪農が行なわれた.この結果,農家の複合経営のなかで,酪農部門が経営結合の中心的地位を占めると同時に農家間結合をひきおこすに到り,牛乳産業は,単に酪農家のみならず,地域社会に及ぼす影響が大きくなった.
  • 三野 与吉
    1968 年 41 巻 10 号 p. 641-646
    発行日: 1968/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
  • 守屋 喜久夫
    1968 年 41 巻 10 号 p. 647-650
    発行日: 1968/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
  • 1968 年 41 巻 10 号 p. 651-656_2
    発行日: 1968/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
feedback
Top