地理学評論
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37 巻, 1 号
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  • 河辺 宏
    1964 年37 巻1 号 p. 1-13
    発行日: 1964/01/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    人口集団を指す「人口」と,その数的表現である「人口数」を直接の対象とする人口地理学は,地理学の他の分野とくらべ比較的に未発達であることは多くの地理学者によつて指摘されている.人口分布論を中心として発展して来た人口地理学は,人口学 (Demography) の分野での分析のテクニックと研究成果をより取り入れることによつて一層の発展がなされるものと考えられる.
    人口数の増加傾向を歴史的に規定する根本的条件がその地域の人口の収容力(経済の力),その構造およびその拡大の速度であると考えられる故に,人口数の変動に関する問題は人口地理学の一つの課題として重要視されて来た.人口学的には,人口数の変動は出生,死亡,人口移動の3つの要素により規定されるといわれるが,地理学においてもこの3つの要素に注目する必要がある.それは,これらが社会経済的構造変化と密接な関係を持つて変化し,人口数に変動を与えるからである.換言すれば,出生死亡,または人口移動の現状と構造,変化とその要因を分析することによつて,人口収容力ならびに人間社会のより深い理解が可能であるからである。
  • 大迫 輝通
    1964 年37 巻1 号 p. 14-34
    発行日: 1964/01/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    1) 鳥取県の桑園面積は, 1930年を最盛期として以後急激に衰退することは全国と傾向を同じくするが,その間立地の重心は西部海岸より中部の大山山麓に寄つてきた感がある.海岸砂丘地帯,とくに弓浜の桑園は,最盛期当時鳥取県桑園分布の核心地域をなしていたが,今日では大山山麓傾斜地にその地位を譲つている.現在鳥取県の桑園卓越地域は,大山山麓の黒ボク地帯と海岸砂丘地帯とに2大別される.砂丘地のものは東部ではほとんど消滅したが,中部の北条砂丘は西側に,弓浜では外浜部とくに日本海の海岸線沿いに多く残存している. 2) 砂丘地帯の土地利用は水利の如何に強く規制されている.灌水方法は,経過的には野井戸(浜井戸)利用や掘抜井戸によるポンプ灌水の個人的小規模のものから,さらに近時県営の大規模な畑灌施設による灌水へと変つてきたが,これにともなう灌水量の増大とともに土地利用も著しく変化してきた.すなわち,深根性でかつ耐旱性の強い桑についてみれば,その立地は常に用水不便な旱魃地に追いやられ,その面積は著しく縮小してきている.近年における桑から,蔬菜・果樹・煙草への転換は,この灌水法の変化と対応している.なお砂丘の高度や地下水位は,その水利並びに土地利用の基本的条件の上に重大な意義をもつ. 3) 砂丘の桑園地帯では,疏菜・果樹(萄葡)・煙草(黄色種)等との競合が著しい.最近,とくに煙草はその増反計画とあいまつてニコチンによる桑ないしは蚕の被害が目立ち,桑園の他へ転換するものも多い.その競合状態は各砂丘地を通じてみられ,その他蔬菜とは弓浜,葡萄とは北条地区において激しい.桑とこれら商品畑作物の分布上にみられるこのような競合関係は,ニコチンの被害のほか消毒剤による桑・蚕の被害や労働配分上における競合がその要因をなす. 4) これらの競合地帯においては,近時それぞれの商品作物栽培農家の階層分化が進行中である.養蚕農家についてみると,その階層は漸次低位の階層へ移行する傾向があつて,従来の専業的・中農的性格は弱まりつつある.これは上位階層の養蚕農家で,煙草果樹へ転換するものが増加しつつある結果,相対的に生じてきた傾向である.桑園は兼業農家の粗放経営の手段として残存維持せられる傾向が漸次強まつている. 5) 耕地経営規模や専・兼業別,あるいは家族ないし家族労働力の構成といつた個々の農家構造は,その農家の耕地利用,ひいては地域の土地利用や構造の上に大きく影響するが,近時養蚕農家構造にみられる性格の変化は,養蚕地域の構造の上に著しい変化をもたらしつつある.養蚕(桑園)卓越地域が稀薄地帯に比べ一般に兼業率が高く,1戸当り農家平均人口については少ないこと,また人口流出傾向のはなはだしいことなどは最近の養蚕地帯におけるとくに注目すべき変化と考えられる.養蚕農家,養蚕地域の構造変化は,土地利用上の競合における敗北という受動的な原因のほかに,省力化を中心とする経営法の進歩という養蚕自体の性格の変化が要因をなすと考えられる.
  • 三浦 鉄郎
    1964 年37 巻1 号 p. 35-44
    発行日: 1964/01/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    河流の変動が激しく,低湿な沖積地で,中世期まであまり開発の手が加えられなかつた雄物川及び馬場目川の両下流氾濫原は,近世期に入つて,はじめて藩営開発地として本格的に取上げられた.即ち秋田平野では, 1623 (元和9) 年~1695 (元禄8) 年に二井田堰, 1801 (享和元)年~1811 (文化8) 年に武左衛門堰,湖東平野では, 1604 (慶長9) 年に戸村堰, 1615~1623年(元禄年中)に真崎堰などがそれぞれ藩営の大工事として開墾され,各数百町歩の開田に成功している.かかる用水路開墾を通して,氾濫源開発の地理的意義を考えてみたい.
  • 1964 年37 巻1 号 p. 45-53_2
    発行日: 1964/01/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
  • 1964 年37 巻1 号 p. 53
    発行日: 1964年
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
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