地理学評論
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32 巻, 10 号
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  • 佐々木 高明
    1959 年32 巻10 号 p. 507-520
    発行日: 1959/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    わが国の焼畑農業は山地の自然にアダプトした特殊な農業であるが,交通手段の発達・食糧自給体制の崩壊とともに,多くの場合,その性格を変化せしめている.北但馬の山村地域において,焼畑農業が明治以後,どのような過程をへて変容し,現在どのような形態をとつて営まれているかを明らかにするのが本報告の目的である.明治初年,焼畑にはヒエ・アワ・ソバなどの雑穀の栽培がさかんに行われ,当時はなお焼畑の農業生産に占める比重が大きかつた.ところが,明治中期以後,外部社会との接触の増加に伴つて,商品経済がこの山村にも浸透し,従来雑穀を栽培していた焼畑に,商品作物として杞柳が導入され,その栽培が農家経済に大きな影響を与えた.一方,大正末—昭和初期頃から,この山村においても植林事業が.はじまり,急斜面の焼畑は,食糧生産を主とするものから林業前作農業としての焼畑へ変化しはじめた.こうして,古い自給的焼畑は,杞柳栽培と植林の2つの極に向つて転化していつたのである.この場合,農家に現金収入をもたらした杞柳の栽培は,主として山腹緩斜面に拡る共有地において,常畑耕地を十分もたぬ下層焼畑農民の手によりはじめられた.その結果,かれらは実質的に共有地を囲込むようになり,現金収入の増加と相まつて,その社会的経済的地位を向上せしめた.かくしてこの山村における焼畑農業の変容過程は,社会階層の変化と関進しつつ進展したということができる.
  • 町田 洋
    1959 年32 巻10 号 p. 520-531
    発行日: 1959/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    中央日本における典型的な急流河川である安倍川の上流部には,激しい侵蝕に由来した堆積段丘が発達している.筆者は,段丘の形態と堆積物について詳しく観察を行つて段丘の形成過程を吟味し,またこれらの地形・地質の状態と古文書に記された変災の記録とを対比することによつて下刻の速度を推定した.
    1) 堆積段丘は大谷川流域の源流部(大谷崩)から供給された数次にわたる土石流で形成された埋積谷の侵蝕によつて生じた(第2図). 2) 段丘は高位段丘と低位段丘群との2群に分けられる(第3図).扇状地状の表面をもつ前者は土石流の堆積面であり,後者はわずかな側刻を伴なつた継続的な下刻によつて形成されたいわゆるnoncyclic terraceである(第4図). 3) 土石流は反覆して安倍川の支流を堰止し,湖や池を生じた.古文書の記録から解釈すると,最新の堰止は1702年に行なわれた.したがつて高位段丘面はその時に形成されたものと考えられる. 4) 諸段丘面と現河床との縦断形(第5図)は下刻の量や回春の様式を示している.下刻は遷急点(赤水滝)の下部で最大値,約70mに達する. 5) この滝は,砂岩よりなる抵抗の大きな岩棚に位置し,ほぼ19世紀末の低位段丘IIの形成の後に生じたものである.この低位段丘IIは,堰止湖の消滅後に隣接流域から供給された外来礫を含む特徴的な堆積物によつて区別されるものである. 6) 回春は主として運搬物質が減少したことに基因するものと考えられる.
  • 川井 玲子
    1959 年32 巻10 号 p. 532-549
    発行日: 1959/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    市町村の行政単位に基く人口密度図にかえ,自然的な地域単位による人口密度図の作成を意図し,日本全土を地形によつて地域区分し,区分された地形区について人口密度を求めた.
    1) 地形区分:地形の形態的・成因的分類により山地・火山地・丘陵・山麓・火山麓・台地・低地に地域区分し,面積を20万分1図上でプラニメーターを用いて計測した. 2) 地形区の人口計算:市町村別人口を地形区の人口に組替える.市町村の単位が2つ以上の地形区にまたがる場合はドツトマツプを基礎として人口配分を行う.ただし市街地の人口は地形区の人口計算から除外する. 3) 日本の地形別人口密度数値を第2表に示す通り得た.また同種の地形における地方的な特色を人口密度数値および頻度表グラフから把握した.これは第2表および第3図に示す. 4) 人口密度数値の地方的な差が大きい丘陵・台地・低地について密度数値をそれぞれ3分し,日本における低密度地域,標準密度地域,高密度地形の分布を第4図に示す通り得た.
  • 三浦 鉄郎
    1959 年32 巻10 号 p. 549-554
    発行日: 1959/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    I) Rokugo-Machi is one of the oldest settlements in Akita Prefecture. In this small town 27 Buddhist temples are clustered together. It is quite rare tosee so many temples in a single small town in the country-side. In Akita Prefecture noother cities or towns except Akita City have so many Buddhist temples.
    II) Rokugo-Machi was first established by-Nikaido as a Castle town in the early Middle Age. Put during the Tensho and Bunroku period (1573-1595), when Masanori ROKTJGO, the lord of this town, adopted a temple-concentration policy and earnestly invited Buddhist priests to build temples. Then the town changed its character completely and became a temple-town. The same policy way taken over by Yoshishige SATAKE, who ruled the town in the Keicho period (1596-1610), The result was that the temples came to play an essential part in the development of this town. By the way, the planning of the town was done before Masanori ROKUGO had settled here, and it provided a good model to those who made the plan of Kubota-Machi, a principal castle town in this prefecture.
    III) The history of “temple-concentration policy” in Rokugo-Machi is didided into two periods. One is the Tensho-Bunroku era, when Masanori ROKUGO ruled this town. In this period, temples were built mainly for the purpose of war, because their moats were known to be useful to defend the town against enemies. The other is the Keicho era, when Yoshishige SATAKE was the lord of this town. He invited Buddhist priests and helped build temples for quite different purposes. What was aimed at through his policy was, first of all, the prosperity of the whole town as a temple-town and enlighten meet of the townsmen. When we study the historcal-geography of the temples in the midde and modern ages, it has been usual to regard them as an important factor in the establishment of a bulwark town with surrounding moats or as one of the military establishments as in modern castle-towns. But we must not overlook the part they played it the peaceful enlight enment of townspeople and prosperity of the town, as we have seen in the example of Rokugo Town.
  • 1959 年32 巻10 号 p. 555-566_2
    発行日: 1959/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
  • 1959 年32 巻10 号 p. 566
    発行日: 1959年
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
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