(1) 近世における林業地域を把握する手段として,筏師密集地域を中心地域とし,これに近い竜寿寺村の発達過程を検討した.すなわち近世初期に成立した「徳川期村共同体」に共同体規制が働き,百姓株が固定し戸数が制限された.近世後期の人口は,一時減少しても増加の傾向にあり,他方,農業生産手段としての土地も,他村地主が27%近くを占めたことがあつたが, 14%に減りその大部分は切畑であつた.それにしても, 1戸当り熟畑は平均16畝余である上に,粗放的な主穀生産では,自給さへも出来ない状態であつた.そこに兼業への依存—果樹栽培・男子の林業賃労働・女子の養蚕・織物—が不可欠になる理由がある.これを基として階層分化をみると,時に変化はあるにしても, IV・V階層の分解によつて,一方はVIII・IX階層へと上昇するのに対し,他方II・III階層へ転落するものが数を増すが,水呑にまではならない.この不徹底さは,むしろ「村共同体」規制によるものと思われる.
(2)初め採取林業から出発したのが,寛文当時近村に育成林業の萠芽が見られ,上層部の切畑集中には,このような山林集中の動きが汲みとられる.本村での筏師の成立はおくれるが,それは山林・林野地主から転化したものが大きい上に,永続的であり,II・III階層のものは1代限りが多かつた.しかしいずれも,江戸の木材商業資本に連らなる在郷商人である.林業経営に伴う労働は,下層階層から析出されるが,これらは賃労働化の傾向にありながら,人口は増加の傾きにあつた.
(3)木材が商品化するに従つて,採取林業から育成林業への発達に対応して,山林の利用形態に変化を生じた.高請地と「居山」は私有林に,共有地の中で分収林設定地・薪炭林・留山は記名共有林に,採草地は記名共有林から一部村有林に移つた.分収林は公私有林野に設定せられ,分収率も5対5が多かつた.これらが明治に入ると,私有林は土地集中も容易になり,惣有地にも私有的性格を打出し,記名共有林に持分権を承認したが,その1部は村有地に編入された.今日の所有・利用に差の出たのは,近世以来発達してきた村の生産的社会的構造を基に発達してきたもので,近代的様相を制約するものである.
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