地理学評論
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33 巻, 9 号
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  • 千葉 徳爾
    1960 年 33 巻 9 号 p. 447-462
    発行日: 1960/09/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    愛媛県西南部豊後水道沿岸の,リアス海岸に卓越する急斜面の階段畑地の成立条件を,大分県側のそれと対比しながら,論理的方法を用いて追求した.その成果は次のようである.
    (1) 文書資料および論理的考察のいずれからみても,これまで一部に説かれてきた,宇和島伊達藩が分封にともなう石高の減少を,検地をきびしくして土地を割出すことにより,おぎなおうとした結果,斜面を開墾させて階段化をすすめたという説明は,信頼できない.
    (2) この地域をふくめて,西南日本の山地では,耕地をあらす野生大形哺乳類,とくにイノシシが減少してから,はじめて林野の広い面積にわたる常畑化が可能となった.その時期は,近世末期である.
    (3) 階段畑地の適作物は,この地域では甘藷にかぎられる.したがって階段畑地の増加は,甘藷の導入と安定作物化よりも後である.その時期は幕末である.
    (4) 住民による広大な斜面山林の全面開墾の進行は,土地所有関係に規定される.そのような土地所有は主として幕末から明治前期にかけてあらわれた.その原因は,広大な山林を独占し,鰯大網の特権をもって住民を支配した網元・村役人階層の没落による.
    (5) 網元階層の没落は,沿岸住民全般の繁栄と表裏している.それは一般住民にもできる小型刺網漁業の発展と,明治中期にはじまった養蚕の盛況にもとつく.漁民の主食確保と桑園化のために,階段畑地の拡張と石垣による土壌侵蝕防止が,重点的に沿岸地域におこなわれた.その時期は,明治中期から大正の初期を中心とする.
    (6) 過度の耕地開発は,動物の生態的平衡を破壊した.
  • 岡崎 由夫
    1960 年 33 巻 9 号 p. 462-473
    発行日: 1960/09/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    広く平坦な釧路湿原は周囲を海成および河成段丘にかこまれ,南部の太平洋とは狭長な砂丘群でへだてられる.これら段丘面は次の通りである.すなわち,海成段丘-白糠 (Dl2, 洪積世前期),根室 (Du1a, 洪積世中~後期)および釧路 (Du2a, 洪積世後期),河成段丘-I (Du1a), II (Du1b, 洪積世中~後期), III (Du2a) およびIV (Du2b, 洪積世末期),および冲積面(釧路平原)である.これら地形面は,主に第三系の向斜が横わる現平原に求心的に繰返された海進,海退によつて形成されたものである.したがつて本平原は主としてこの海進と海退によつて生じたとみられたが,しかし,これら地形面の分布や形状および地形的特徴から,平原は,その中心を洪積前期には西におき,後に東南部へ移した造盆地運動とみられる地盤運動に著しく影響されたことがわかる.大ざつぱに言えば,本平原は撓上地形面にかこまれた一つの堆積盆地である.この地域の地形は冲積世前後のユースタチック運動と地盤運動によつて最終的に決定された.洪積世最末期には海水面は現水準下約90mまで降下し,同時に海蝕面を現海水準下80~160mに形成し,また陸上では海面下80mに埋積谷を作つた. 冲積海進はその最盛期には現海面上約10mに高まり,海湾,古釧路湾を形成した.海退は背後に砂洲や湖沼に伴われた海岸平野を残したが,これらは示差的隆起による地形的特徴を示している.
    湿原の形成は排水を阻害したその低水準と砂洲に基づいたものであつた.それ以来,以前の造盆地運動の軸心部に撓下軸をおいた撓曲運動が行われ,湿原表面の起伏に影響を与えている.
  • 松本 豊寿
    1960 年 33 巻 9 号 p. 473-482
    発行日: 1960/09/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    Yamaguchi and Sumpu which newly became capitals of “Han” in the middle of the 19 th century had peculiar characteristics in their town-area formation.
    Firstly their castles had been turned into administrative offices and had lost their military significance. “Samurai Yashiki” existed in fact, but “Samurai Machi” had not been set up yet. It was a residental quarter for scattered bureaucratic retainers. “Machiya” had lost their privileged township characteristics. “Machiya” had been abolished and the phenomenon of confining a special trade to a special section had ceased to exist, so that business in general had been diffused all over the town. A new centrall street had taken the place of the old business center, and the core of the town had moved to the centrall street from the castle.
    In short, this new capital was by no means a castle-town, and the writer of this article calls this new capital “Hanto” and considers this phase the last stage of a feudal castle and the forerunner of a modern city.
  • 1960 年 33 巻 9 号 p. 484-494_2
    発行日: 1960/09/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
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