従前から筆者は,律令国家漸移地帯の地域構造の推移に関する研究を試みてきた.本研究もその一環である.
奈良朝中期から後期にかけて,陸奥側に天平の5柵と桃生・伊治両城が造営されたが,漸移地帯の前進は,停滞気味であった.この時期は,対夷活動が活発であり,その舞台は,仙台平野北半部で,いわゆる仙北である.この時期には,律令体制の内的矛盾が顕在化し始めていた.なぜ,仙北において,律令体制の前進が停滞したのか.そこに地域変容の課題があり,その分析には,当時の地理的基礎を把握しなければならないのである.律令前代には,仙北において大和系と北方系の両文化の隔差があり,律令体制に入っても,管郡内容が物語るが,仙北における集落形成は局地的であった.なお,仙北は洪水常襲・冷害頻発地帯である.それに,低平地の大部分に低湿地が大規模に分布するため,点的な開発は可能であっても,面的な開発は困難であった.
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