地理学評論
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38 巻, 10 号
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  • 寿円 晋吾
    1965 年 38 巻 10 号 p. 591-612
    発行日: 1965/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    筆者は,地形学的観察から,武蔵野・立川・青柳・拝島の各段丘面を形成した青梅より下流の多摩川は現在の多摩川と同じく平衡河川であったと考えた.
    平衡河川において,或る地点の河床高度をH, 起点からその地点に至る距離をx,積分定数をγとすれば,河床の距離-高度曲線はS. Shulitsにより,
    H=AekxH>0, A>0, k<0 (1)
    で表わされる.これをxで微分すると,河床勾配Sと距離xとの関係を表わす河床の距離-勾配曲線は,
    S=σekx S<0, σ<0, ………(2) で表わされる.一方,平衡河川の河床礫の申央粒径Gと距離xとの関係を表わす距離-粒径曲線はH. Sternbergにより,
    G=aebx G>0, a>0, b<0, ………(3) で表わされる. (2) を変形し(1)に代入すれば,勾配Sと中央粒径Gとの関係を表わす粒径-勾配曲線は
    S=λGμ λ<0, μ>0………(4) で表わされる.ここで(3)は元河床にも適用されると仮定すれば,距離xにおける元河床の勾配〓0と,同地点の元河床礫の中央粒径〓0との関係は
    0=λ〓0μ 〓0<0, 〓0>0 (5) で表わされる.ところで,距離xにおける元河床礫の中央粒径は,同距離における段丘礫の中央粒径〓に等しいとみなすと,
    0=〓=a'eb'x 〓>0, a'>0, b'<0………(6)で表わされる. (6)を(5)に代入すると,
    00'ekox σ0'<0, k0'<0………(7) をえる.これは元河床の距離-勾配曲線を表わす。距離xにおける売河床の高度を〓0,積分定数をγ0'とすれば, (7)を積分すると,
    0=A0ek'ox0'0>0, A0'>0, k0'<0………(8) をえる.これは元河床の距離-高度曲線を表わすが,積分定数の値は式からは求まらない.従ってその縦断形は知られるが・その高度は決定しがたい.
    筆者は以上により,元河床の縦断形と段丘面の縦断形との比較から,段丘面の上流と下流との相対的垂直変位を算定する方法と,更に各段丘面が河床時代の上位段丘面の縦断形配置を知り,当時の各段丘面について,それぞれ上流と下流との相対的垂直変位を算定する方法とを考え,これらの方法を武蔵野段丘と立川段
    丘とに適用した.その結果前記した台地の運動と同様の運動が算定された.
    現在,わが国の第四紀研究者の中に,立川段丘面の勾配が現河床や武蔵野段丘面の勾配にくらべ急であるのは,立川期の低海水準に基因する現象と解釈する人がある.しかしながら,海水準の低下のみによって新たに生ずる海岸平野が緩勾配で,沿岸の海底がすこぶる遠浅である場合を考えると,この解釈には疑問を生ずる.筆者は本研究から,武蔵野台地の立川段丘面の急勾配は主として地盤運動によるものと解釈する.
  • 魚沼地方の地形発達史についての若干の考察
    内藤 博夫
    1965 年 38 巻 10 号 p. 613-629
    発行日: 1965/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    第四紀に活〓な構造運動が行なわれたことが知られている新潟県魚沼地方の地形発達史を明らかにするために十日町市周辺を調査し,次のような結果を得た.
    六日町盆地,魚沼丘陵,十日町盆地の分化が始まったのは魚沼層群塚山累層堆積後である.それまで一様な堆積平野であった魚沼地方の中で魚沼丘陵東部が隆起をはじめ,その東側の越後山脈との間には六日町盆地が残された.一方西側の十日町付近は越後山脈からの直接の物質の供給を絶たれ,代って西南から火山岩を含む物質が供給されるようになり,そこに魚沼層群上部の小国累層が堆積した.丘陵東部では隆起に伴って開折がすすみ,かくして生じた起伏をおおって桝形山熔岩が噴出,堆積した.
    魚沼層群堆積後その褶曲がすすみ,かつ背斜部に近い魚沼丘陵と向斜部の十日町盆地はともども隆起して侵蝕地城となった.その間に地盤運動のややゆるい時期があり,十日町盆地を流れる信濃川に南東からそそぐ支流によって侵蝕面的性格の大谷内面と伊達原面が相ついで形成された.伊達原面形成後はそのような広い地形面は形成されず,信濃川とその支流は千手面などいくつかの段丘面を作りながら下刻し,現河床に至っている.この間十日町盆地を作った信濃川現流路をほぼ長軸とする向斜盆を作る運動がつづき,信濃川に直交する方向の動きは伊達原面の変形(東上り西落ち)に,信濃川に沿った方向の動きは千手面の変形(北上り南落ち)に認められる.一方六日町盆地には段丘地形はほとんど認められず,おおむね堆積地域であったと思われる.
    このように魚沼層群堆積後,十日町盆地は周辺に対しては向斜として沈降しながらも基準面に対しては隆起の傾向にあったのに対し,六日町盆地は魚沼丘陵の後背地としてむしろ沈降の傾向にあったといえる.
  • 松本 繁樹
    1965 年 38 巻 10 号 p. 630-642
    発行日: 1965/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    筆者は中部地方建設局磐田工事事務所保管の資料をもとに,大井川下流部 (0~23km) 問における最近の河床変動の実態を検討し,ついでこれと砂利採取との関係について考察を加え,さらに今後の採取可能量にまで論及したが,それらを要約するとつぎのようになる.
    1) 大井川下流部の1963年度の平均河床高を,1955年度のそれと比較してみると,全ての区間での河床低下が認められ,低下量の最大は73.6cm, 最小は1.6cm, 全区間の平均では33.5cmとなる.
    2) つぎに総土砂変動量から河床の変動をみると, 1958および1961の両年度で堆積となった以外は,全ての年度で洗掘を示し, 1958年度以降6年間の総計では,差引約370万m3の洗掘という結果になる.
    3) 大井川下流部での砂利採取は,近年急激な勢で増加していて, 1958年度以降1963年度までの採取許可量は,合計約320万m3にのぼり,その推定採取量では640万m3ないしはそれ以上に達するものとみられる.
    4) 一方,同じ6年間の川自身による堆積量を逆算してみると,約270万m3となるが,この値は先の砂利採取量の2分ノ1以下にしかすぎない.
    つぎに上記の資料をもとに, 1kmの区間毎の土砂変動量(洗掘量)洗掘量と砂利採取量との関係を吟味してみると,両者には一部の区間を除いて,かなりの相関が認められ(相関係数r=0,602), その関係はy=0.351x+13.92なる式をもって表わすことができる,また砂利採取量のみから算定した河床低下量と実測による低下量との問にも,ほぼ類似したかなりの相関が示され(r=0.635), その関係はy=0.469 x+5.48という式で表わすことができる.
    8) 下流部河床内における1963年度末現在の砂利の採取可能量は,約850万m3と計算されているが,実際にはこれにさらに上流からの流入土砂量(年間約70万m3ないしは45m3)を加算しなけれぼならない。しかし,今後の砂利採取量を現在とほぼ同一である(実質採取量で年間約200万m3)と仮定しても,大井川下流部での砂利採取は,この先10年を待たずして,全面的な禁止を余儀なくされるものと考えられる.
  • 宮地 良和
    1965 年 38 巻 10 号 p. 643-657
    発行日: 1965/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
    伊豆新島は,主として第四紀火山活動による流紋岩質熔岩と,その灰砂とから成るいくつかの火山の集合体である.このことは,過去の諸研究によってあきらかにされていたが,筆者は,これらの灰砂と熔岩との関係づけを,新たに地形学的見地から,いくつかのホマトロイデの形成という形で行なった。そして,これによって従来の諸説の修正と補足を兼ねるとともに,とくに灰砂層の堆積について論議されてきた海成,陸成の両説に関して,新たに発見した二・三の事実などをも総合して,灰砂層のすべてが,ほぼ陸成と見られることを結論づけた.
  • 1965 年 38 巻 10 号 p. 658-660_2
    発行日: 1965/10/01
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
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