横浜国立大学は文部科学省リスクコミュニケーションのモデル形成事業において,大学院向けのリスクコミュニケーションに関するカリキュラムを作成した.本論では,その一部分であるリスクコミュニケーションの我が国における導入と発展について,化学物質管理分野に重点を置き歴史的に俯瞰する. リスクコミュニケーションとは,不確実性のあるリスクの管理措置を検討する過程における対話である.工学者としてリスクコミュニケーションを理解するには,ISO31000 リスクマネジメント規格やIRGC におけるリスクガバナンスの枠組みを学ぶ必要がある.
「食」と「農」を単独に取り上げるのではなく結びつけた時,「食と農」のリスク問題はどのように見えるだろうか.そのリスクコミュニケーションのあり方はどのようになるだろうか.複雑さや不確実さが顕わになるだろう.では,コミュニケーションの場を企画し遂行するにはどのような素養が必要なのだろうか.その学びとして大学院開講科目を立ち上げるなら,どのような内容であればその素養は涵養されるだろうか.我々は,10 年近く一般市民と専門家との対話,マルチステークホルダー対話等を通じてリスク問題をめぐるコミュニケーションを実践し,その知見と様々な関係者の協力を得て,食をもたらす基盤としての農も含意させた「食のリスクコミュニケーション論」を2018 年に開講した.本稿は北海道大学大学院農学研究院でのカリキュラム化の試みの紹介である.
放射線リスクなどの高度な専門知識を要する課題には,専門家と住民の間で情報や意見を交換するリスクコミュニケーションが求められる.しかし,専門家と住民との間に知識や関心のズレが生じることで,コミュニケーションが円滑に進まなくなる場合は少なくない.福島県立医科大学では,そのようなズレの調整役を担う自治体の保健師や地域の相談員らと連携して,福島の住民とのリスクコミュニケーションを目指してきた.本稿では,これまでのリスクコミュニケーションの実践例として,県内各地の保健師ら向けの出前講座や,特定の地域における住民との協働的な意思決定,福島県外の防災意識を高める机上演習を取り上げ,それらについて専門家と住民の間に調整役が入る三者モデルの重要性から考察する.
化学産業で一旦大きな火災爆発事故が発生すれば,工場従業員の怪我やプロセスの損壊だけではなく,工場周辺の地域住民の怪我や避難,住宅の損傷,交通機関の麻痺等の影響も発生する恐れがある.そのようなネガティブなリスクをマネジメントする上で,リスクの特定から対応までに至る各段階において,各ステークホルダーとのリスクコミュニケーションが求められる. 横浜国立大学は,文部科学省平成28 年度リスクコミュニケーションのモデル形成事業(機関型)により,「化学プラント等におけるリスク管理者養成コースの検討と実践」としてリスクコミュニケーションの素養を身に付けた人材育成に資する大学院生向け教育カリキュラムを構築した.本稿では,教育カリキュラムの狙いや検討過程,講義内容を紹介した.
原発事故後に放射性物質が拡散した福島県伊達市で住民にインタビューし,住民とのリスクコミュニケーションに大切なことを検討した.どの住民も放射線量には関心があり,行政が情報を積極的に開示しないと情報を隠していると捉えていた.それゆえ,行政などの情報提供者は,情報がたとえ完全でなくても,住民と情報共有するという意識が重要であるといえる.また,住民は放射性物質の除染が住宅周辺だけということに不満があった.一方で,除染の進め方については市の立場を理解する意見も聞かれた.これは市が住民説明会を早期に開き,住民とのコミュニケーションを取る姿勢があったことが一因と考えられる.
リスクマネジメントが所定の成果を上げるには,当該の組織が健全な状態で運営されていることが重要である.しかし事故や不祥事などが発生し,その原因調査の結果,健全な組織運営がなされていなかったと反省している事例が目立つ.またそれらの再発防止のための方策も「経験智」に基づいた“もぐらたたき”的要素が強いものが多い.本稿では,これらの課題を解決すべく,業種を超えた「経験智」を知識化・教訓化し,「経営智」として体系化した,日常的に簡便に活用できるリスクマネジメント手法を紹介する.化学系企業を事例に簡便な組織と個人のリスクへのセンス度の診断法や企業としての対社会に対するリスクコミュニケーション手法などを織り込んでいる.本手法はCRO を選任したリスクマネジメントの実施が困難な中規模以下の企業に特に推奨する手法である.
リスク・コミュニケーションに限らず,事業者の意見や主張あるいは情報はステークホルダーにただ伝えるだけでは意味はない.理想は,相手に伝わり,その結果,相手の行動や社会に変化が起きるような実効性のあるコミュニケーションが実現することである.しかし,「本音と建て前」や「忖度」がまん延する日本社会では,ステークホルダーとのコミュニケーションは容易ではない.本稿では,リスクの伝え方だけではなく,コミュニケーションそのもののとらえ方と有能なコミュニケーター育成のための方法を紹介する.また,現在の日本におけるネットやマスコミなどのメディアの影響力について実態を解説し対策についても提案する.
本稿では,まずリスクの定義から確率概念とリスク概念の違いについて考え,リスク社会論において重要視されている社会的合理性について考察する.次に公衆のリスク認知によるリスクの分類を紹介する.続いて科学技術のリスクコミュニケーションにおける課題として,ユニークボイス(シングルボイス)をめぐる論点,幅のある情報発信をめぐる論点,リスクコミュニケーションにおける「分断」と主要価値モデルについて論じる.さらにリスクコミュニケーションにおける市民参加を考察するために,Renn による市民参加の6 つの概念モデルを紹介し,最後に欧州科学技術政策の1 つであるRRI(Responsible Research and Innovation)のなかにリスクコミュニケーションを位置づける.
水素ステーションに関する定量的リスク情報を提示した社会受容性調査を実施した.自分の家の隣での建設を想定した場合,リスク情報を提供した群において受容性が高まり,リスクの絶対値に加えてリスクの一般的な許容レベルを提示した群のほうが,受容性がより高まった.一方で,自宅の最寄りのガソリンスタンドでの建設を想定した場合はリスク情報を提供しても受容性は高まらなかった.また,安全対策情報を提供しても受容性は高まらなかった.この結果より,事業者が水素ステーション建設の際に近隣住民に説明する場合,隣接する地区の住民には,リスク情報というネガティブな情報であっても提示し,説明することで理解が得られる可能性があることが示された.因子分析では,リスク情報提示のある群では「破滅性」と「未知性」スコアが低くなっていることが示された.
クライシス・コミュニケーションとは,危機的事態覚知後にダメージを最小化するために行う言語・非言語を用いるレスポンスのことであり,リスク・コミュニケーション活動の一つに位置付けられる.クライシス・コミュニケーション戦略の一般的理論はすでに存在するものの,国民文化の相違によって,受け手となるステークホルダーによる評価は一様ではない.本稿は,日本,米国,中国について,各国の国民文化,社会システムの特徴および危機事例を挙げ,受け手の評価を概括し,各国に適切なクライシス・コミュニケーション戦略を論ずることを目的とする.その結果,トップによる謝罪,実直であることが評価される傾向の日本,対立を恐れずに明瞭な主張が評価される傾向の米国,調和を図ることが評価される傾向の中国といった,異文化的価値観を理解した上でのコミュニケーションが欠かせないことが検討できた.
情報やインターネットを使った企業のサービスを受けるにあたって顧客が感じているリスクの中には,従来のリスクとは異なる特徴を持ったものがある.本稿は,今後の研究の進展を目指して,この特徴を考慮したリスクコミュニケーションとその課題,および,当該のリスクコミュニケーションの有用性について示すことを目的とする.はじめに,顧客情報の利活用に関するリスクと情報セキュリティのリスクの2 つを選定し,これらのリスクについてのコミュニケーションが顧客の懸念を低下させることに効果的であるか検証した.次に,リスク情報や認識の共有を目的として企業から顧客に働きかける場合,これを困難にする心理的要因を紹介した.最後に,情報化社会においてはこれまで以上に,リスクコミュニケーションが企業にとって有用なリスクマネジメント手法となり得る可能性を示した.
消費生活用製品のリスク・コミュニケーションは,取り扱い説明書,警告表示,教育,啓発活動など多岐にわたる.心理学においては,警告表示を中心に知見が積み重ねられてきた.また,消費生活用製品は,リスク認知について,ハザードの発生確率よりもハザードそのものの重大性がリスク回避行動に影響する.そのため,リスク・コミュニケーションもハザード認知を高めるような手法が主として検討されてきた.本稿では,これらの手法について紹介するとともに,今後の課題として,企業が主たる情報源となる場合には,あるべきリスク・コミュニケーションが実現しない場合もあることを指摘した.
近年,環境や科学技術のリスクの問題は市民の生活の身近な存在となりつつある.またこれに対しては,「安全・安心な社会の構築」を前提とした,様々なリスクに関わる安全の確保とともに,安心の獲得に関わるリスクコミュニケーションが求められている.日本においては,特に2011 年の東日本大震災と福島第一原発事故時には,必要性が高まり,また実際に多く実践もされた.しかし,これは必ずしも全てが上手くいったとは言い難く,リスクコミュニケーションをどのように社会に実装していくのかについては,さらに議論を必要としているところである.本報告では,円滑なリスクコミュニケーションの実施の 一助として市民のリスク認知に対する2011 年の震災と事故の影響に関する調査を行い,その現状を明らかにすることで,対話に必要な基本的な情報を把握した一例を示す.
人文科学,自然科学,社会科学など多様な分野のリスクに対峙してきたリスク学は,それぞれの学問分野ごとに独自のリスク概念が取り上げられてきた経緯から,これまで単一の学問体系は存在していなかった.しかし,世界の相互接続性,相互依存性の高まりから異なるリスク同士を横断的に俯瞰できる試みが求められている.著者らは,リスク研究の今日的な到達点とリスク研究を実践する上での課題を明らかにするべく,全4 部13 章195 項目のリスク学事典として体系化を行った.リスクの定義を分野横断的に見つめ直し,現代社会の課題に対応できる実学に成熟させることは,まさに時宜にかなうと考える.