電離放射線による生物効果は使用される線源の特性により異なるが,これまでは多くの場合,光子放射線に関する知見に基づいて考えられてきた。HIMACシンクロトロンの導入及びその利用研究により,高LET(線エネルギー付与)の粒子線の生物効果が明らかとなってきた。本分野に於いてHIMAC利用研究が切り開いた新展開を紹介する。
炭素線によって水溶液中に生じるヒドロキシルラジカル(·OH),過酸化水素(H2O2),及び酸化反応の量を,電子常磁性共鳴をベースとする方法により測定し,X線のそれと比較した。·OHの生成は炭素線の軌跡上に局在しているものと思われ,ミリモラーあるいはモラーレベルの異なる生成密度があることが示唆された。ミリモラーレベルの·OH生成,過酸化水素生成,及び酸化反応の量はLETが高くなるにつれて減少した。放射線による活性酸素種(ROS)の生成は分子レベルのミクロな環境では一様ではなく,またその量はLETに依存して変化することがわかった。このようなROS生成の違いによって炭素線とX線との線質の違いを生み出している可能性が明らかになりつつある。
本稿では放射線照射によって誘発される様々なDNA損傷の中でも,DNA二本鎖切断(DNA double strand break: DSB)とその修復について,HIMACで得られた成果を中心に紹介する。HIMACを用いた研究により,高LET粒子線照射によって引き起こされる複雑なDNA損傷やクラスターDNA二本鎖切断の形状が明らかになってきた。またその修復経路とそれに関わる分子も解明されつつある。これらの分子情報と合わせてDNA修復阻害を介した粒子線増感効果の研究もHIMACにより大きく進展している。本稿ではHIMACを用いて明らかになったこれらのトピックスに関して詳細に紹介する。
HIMACを使った重粒子線による生物学的効果比に関する研究成果を紹介する。炭素線治療は,光子線治療に比べて,強力ながん制御能に加えて低侵襲であるため,QOLが高い。炭素線治療の有益な効果を理解するためには,線エネルギー付与と生物学的効果比の関係について正しく把握し,線量を正しく評価することが重要である。ここでは,炭素線治療における生物学的効果比の概念についての現状と意義をまとめて,HIMACを使った重粒子線研究から明らかになった生存率,正常組織障害,腫瘍増殖遅延を指標とした生物学的効果比の結果を紹介し,未解決問題について論じる。
低LET放射線の生物作用でよく知られた酸素による増感効果が高LET放射線では低下するという現象は,がん組織の低酸素分画の制御の点で強く期待されている。HIMACでは実際のがん患者を対象とした臨床研究から酸素効果低下のメカニズムなどの基礎研究まで幅広く行われている。本解説では特に基礎研究の中から,低酸素下でのDNA損傷の性質,酸素効果低下を説明するモデルとその実験的検証の試みについて紹介する。
低線量放射線に対する特異的な細胞応答には放射線適応応答・遺伝的不安定性・放射線誘発バイスタンダー応答・低線量放射線超高感受性などがある。しかしながら,それらの誘導メカニズムには未だ不明な点が多く残されている。筆者らが量子科学技術研究開発機構放射線医学総合研究所重粒子線がん治療装置(Heavy Ion Medical Accelerator in Chiba, HIMAC)を用いて明らかにした放射線誘発バイスタンダー応答及び放射線適応応答の誘導メカニズムの一端について概説する。
炭素線治療は,重粒子線の特性から少分割照射であっても正常組織の線量を耐用線量以下に保ちながら腫瘍に対して高い制御効果を達成できる可能性があると考えられており,現在では回数を減らす治療が検討されている。しかしながら,重粒子線の分割照射効果については,未だ十分に研究されていないのが現状である。ここでは,分割照射法の概念についてまとめ,HIMACを使った分割照射研究及び我々が得た知見を中心に分割照射の生物学的効果について紹介する。
がんは日本人の2人に1人が罹患し,転移と呼ばれる特異的な性質が様々ながん治療の予後を決定する極めて重要な因子となっている。これは放射線治療においても例外ではないが,粒子線とがんの転移に関する研究は少ない。放医研のHIMACは様々な粒子種及び線質を用いた実験が可能であり,これまでの放射線の「量」による転移影響に加え,「質」の違いによる影響も含めた有用なデータを取得することができた。
HIMACを用いて行われた動物発がん実験について,RBEに関する知見を中心に概説する。重粒子線治療の二次がんリスクを予測するに当たっては,炭素線の発がんに関する生物学的効果比(RBE)の選択に不確実性がある。そこで,HIMACを用いていくつかの動物発がん実験が行われたが,その結果から,RBEが組織,年齢,線量に依存した値をとることが示唆されている。今後,全身の臓器を観察するなどのより包括的な研究が必要である。
治療用加速器であるHIMACは,基礎研究にも利用され,これまでに多様な目的の生物系研究が行われてきた。その中で,重粒子線(イオンビーム)のがん治療以外への応用を目的とした研究として,がん以外の疾患治療研究と育種研究があげられる。これらは,イオンビームの新しい活用により我々の生活を豊かにしていくことが最終的なゴールであり,ほかの多くのHIMAC共同利用研究とは方向性が大きく異なっている。本稿では,HIMACで行われてきたこれらの研究と成果を紹介するとともに,今後の展望について説明する。