猩紅色菌は,わが国における汗疱状白癬,頑癬,斑状小水疱状白癬,爪白癬の主要病原菌である.この菌は,1910年にCastellaniおよびBangによつて各々独立的に初めて記載され,夫々Epidermophyton rubrumおよびTrichophyton purpureumと呼ばれたが,わが国においては,1922年に太田がその存在を最初に確定した.CastellaniおよびBangの記載した集落形態を要約すると「猩紅色菌のSabouraud葡萄糖寒天培養は,中心部においては白色絨毛よりなる瘤様突起または岩穴状の陥凹を呈し,その周辺部においては放射状の皺襞を示して表面に粉末を混じ,その基底部においては深紅色あるいは菫色調を帯びた紅色に着色してかつ培地内に紅色色素の拡散を生ずる」とある.更に彼等は顕微鏡的所見として,西洋梨状の単純性および葡萄状の小分生子の発生および紡錘状の大分生子の形成を本菌の特長として記述した.太田は,小分生子を粉末状胞子Aleurieと称し,大分生子を紡錘状胞子と呼んで同様の記載を行つた.かかる記載のみを基準とすれば,猩紅色菌の肉眼的および顕微鏡的形態の特長は極めて劃然としており,本菌の同定は必ずしも困難とはいい得ないようである.しかしながら,その後の研究者の間には本菌の同定を行うに際して,集落の性状,着色状態,分生子の有無などの形態的所見が,Castellani,Bang,太田等の記載によるものと僅かでも異なれば,その菌を変種あるいは新種と看做す傾向が強く,かくして猩紅色菌と同定さるべき菌がその変種乃至新種として本邦および欧米において多数報告され,その収拾に困難を来すに立ち到つたのである.1930年に橋本等は,猩紅色菌あるいはその変種として報告された菌株について吟味を行い,Castellani,Bangの謂う猩紅色菌に属せしめるべきか否かを検討した.更に,1933年には太田,川連は猩紅色菌およびその変種に関する分類を発表し,ここに猩紅色菌の形態学的概念に一応の整理を与えたのである.しかるに,一般に皮膚糸状菌における形態的所見は,菌の継代培養を繰返すうちに次第に変化を来し,菌にとつて形態的性質は必ずしも不変的,固定的ではないことが明らかとなつた.1930年LangeronおよびMilochevitchは,小麦,大麦,燕麦,玉黍蜀のwhole grainより作つた“natural media of polysaccharide base”にTrichophytonを培養することによつて,Sabouraud培地においては形成を欠いた大・小分生子,ラセン器官の発生を認め,HazenはMicrosporum audouiniが常用培地においては大分生子を殆ど発生しないのに拘らず,蜂蜜寒天に酵母抽出液を添加した培地においてはそれを常に形成するのを認め,更にBenhamはheart infusion_tryptose agarが猩紅色菌の大分生子形成を著しく促進する性質を有することを証した.これらの事実に緒を発して,菌の形態に影響を及ぼすかゝる物質が如何なるも
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